天正少年使節 - 大村の歴史 大村観光ナビ

キリスト教の布教が進む中、宣教師ヴァリニャーノは、キリスト教の中心地ローマへの使節派遣を計画し、大村純忠、豊後の大友宗麟、島原の有馬春信、の名代として4人の少年が派遣されました。これが「天正遣欧少年使節」と呼ばれる日本初の公式ヨーロッパ訪問団で、正使として伊東マンショ、千々石ミゲル、副使として原マルチノ、中浦ジュリアン、の4人の少年が選ばれました。彼らは、ポルトガル、スペイン、そしてローマを訪れ、400年前のヨーロッパに日本という国を知らしめました ・・・続きは本文を・・



天正遣欧少年使節 - 大航海物語 1582年欧州へと長崎を出発

織田信長の晩年のころ、イエズス会の日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano、1539-1606)が来日(1575天正3/7)しました。天正10年正月(1582)に長崎から離日する直前に、ヨーロッパに日本人を紹介して、その援助で日本布教を勧めると共に、帰国した日本人自身にヨーロッパの「素晴らしさ・偉大さ」を語らせて布教活動を進めるため、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを、急遽企画しました。使節の人達は島原半島の有馬セミナリオ在学生の中から、「大友宗麟」の名代として、その遠縁の「伊藤マンショ」、「有馬晴信」と「大村純忠」の名代として イエズス会宣教師

ポルトガル 1993 発行
両人の親族の「千々石(ちぢわ)ミゲル」とし、中浦ジュリアン、原マルチノの両人を副使として同行しました。一行は1583年にインドのゴアに達しましたが、バリニャーノは同地に留まらねばならなくなり、日本語に通じたポルトガル人デイオゴ・デ・メスキータが使節の指導にあたり、1584年8月リスボンに到着しました。長崎を出港してから2年6ヵ月かかったわけですね・・・続きは本文を・・

慶長遣欧使節の出帆から400年 今、支倉常長の偉業を知る

1611(慶長16)年12月、三陸沖北部などを震源とするマグニチュード推定8クラスの慶長三陸地震が発生しました。当時の資料によると、地震による大津波は、仙台藩領内だけでも数千の命を奪ったといわれています。
 2年後の1613(慶長18)年、仙台藩主・伊達政宗は、この難局を飛躍の機会に変えるべくサン・ファン・バウティスタ号を建造し、メキシコとの交易を目指してヨーロッパに支倉常長ら慶長遣欧使節を派遣しました。
 大津波に見舞われながら2年後には、外国に使節団を派遣するという画期的な事業を成し遂げた事実は、400年後の現代において、私たちに大きな困難から再生するための強い覚悟と勇気を与えてくれました・・・続きは本文を・・