黒船はどうやって日本に来たの? ~捕鯨の街と日本との意外な関係

 現在は「反捕鯨」の急先鋒であるアメリカですが、19世紀には、照明用などの油を採取するため、世界最大の捕鯨国でありました。その、最大の捕鯨基地が、東海岸のマサチューセッツ州にあるニューベッドフォードでした。
 1850年代、アメリカ西海岸はようやく開拓がはじまった頃で、アメリカの大陸横断鉄道や太平洋航路は整備されていません。もちろん、パナマ運河などというものもありません。それどころか、メキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアがアメリカ領土となったばかりです。ですから、軍事基地は東海岸にありました。ニューベッドフォードを出た捕鯨船は、アフリカの南端(喜望峰)を回り、インド洋に進出していました。インド洋で鯨資源が枯渇しはじめた1850年代には、地球をぐるっと回った北太平洋も漁場となっていました。
 ペリー自身も、日本まで太平洋を渡ってきたわけではなく、1852年11月にバージニア州のノーフォーク(現在も海軍基地があります)を出港したあと、ケープタウンやスリランカ、上海などを経由し、約半年かけて浦賀にやって来ています。上海寄港後沖縄や小笠原諸島に寄っているのは、捕鯨船の補給基地の確保という意図を裏付けるものと言えるでしょう・・・続きは本文で・・

ペリー来航 - 船の科学館 資料ガイド4 黒船来航

ペリー艦隊の編成計画
 1852年(嘉永5)1月24日に海軍准将ペリーは東インド艦隊司令長官に任命されましたが、主な任務は日本開国の交渉使節でした。ペリーは日本との交渉は強力な武力を背景にしないと成功しないと考え、大艦隊を編成して日本に遠征することを計画しました ・・・

“ミシシッピ”の日本までの航跡
 ペリーはどういう航路を通って日本まで来たのでしょうか。前に説明したように蒸気船の太平洋航路は未整備なので、アメリカから大西洋を横断し、アフリカの西海岸を南下して喜望峰を回ってインド洋に入り、さらにシンガポールを通って香港)、上海に至るという航路でした。上海から琉球の那覇に寄港し、ここで最終の艦隊を編成して日本に向かいました ・・・
 1853年7月2日(嘉永6年5月26日)に4隻の艦隊は那覇を出港し、日本を目指しました。“サスケハナ”は“サラトガ”を、“ミシシッピ”は“プリマウス”をそれぞれ曳航して航行し、最初に述べたように7月8日(旧暦6月3日)に浦賀沖に投錨しました。

 ペリーが携えて来たフィルモア大統領の国書の受け渡し場所について、日米間で交渉が重ねられましたが、結局、久里浜(浦賀近くの場所)ということになりました。

 調印式のために上陸した隊列は,星条旗と軍楽隊を先導し,続く中心部に国書と委任状を持つ 童子2人と赤い服装のペリー,その後に護衛の海兵隊が続き、総勢500余人であっ たといいます。
 この時に演奏された曲は "Yankee Doodle" (アルプス一万尺)。

 伝達式が終わるとペリーは来春国書の返答を受取るため再び来日すると言い残して艦に戻りました ・・・続きは本文を・・


ペリーの微妙な立場

 当時アメリカの各新聞社は、政府がペリー艦隊による軍事的圧力で、日本に開国を迫るのを、批判していました。
 憲法違反の、内政干渉に触れるというものです。18世紀末の建国当時からの憲法修正第一条に、「言論の自由」を組み込んでいる米国です。当時の合衆国大統領であるフィルモアがペリーに当てた指令書にも、日本に対する戦争権の否認と、自衛以外の発砲権の禁止が挙げられていました。

 また、当時の太平洋における合衆国の立場自体が微妙だったとする研究もあります。 合衆国は、日本とアメリカが戦争状態に陥れば、イギリスが中立の立場を取り、香港などの補給地を失うという認識をもっていました。
 当時の合衆国は、太平洋における補給地のほとんどをイギリスの領地に依存していたそうです。 太平洋においては新参者の合衆国にとって、補給地の不足は否応なく実際的な政策を取らざるをえないものであり、日本に対する威圧的な態度も、政治的なパフォーマンスという意味合いが強かったものと考えられます。 西洋の強国がアジアの小国を開国するといった直線的な歴史よりは、事態はなかなかに複雑なものであるようです ・・ 続きは本文で・・

フィルモア大統領から日本国皇帝への国書
   (ペリー提督「遠征報告」33rd Congress, 2d Session. Senate. Ex. Doc. No.79. Vol.I 、256-257ページより訳出。)

日米和親条約  解説と現代語訳




日本 1852 ――ペリー遠征計画の基礎資料
 本書は1852年7月、ペリー艦隊がアメリカ・ノーフォークから日本に向けて出港する四カ月前にニューヨークで出版されました。ペリーの交渉によって日本は開国するのか。世界の耳目を集めたアメリカの遠征計画ですが、相手国の日本について総合的に知る著作物は皆無ということで、いわば時代のニーズに応えて、イギリス有数の歴史・地誌学者が書いた「日本概説」です。西洋との接触、地理、民族と歴史、宗教、政体、鉱物資源、動植物、芸術、言語、文学等から日本人の性質までを網羅し解説されていて、米英の対日観の原点を知るうえでは大変重要な資料です ・・
●恐るべきイギリスの「情報力」
 まず驚かされるのはイギリスの情報収集力の凄さです。日本が門戸を閉ざしていたイギリスですが、ラテン語からポルトガル、スペイン、イタリア、フランス、オランダ、ドイツの各国語で書かれた日本関連の書物が十六世紀以来、膨大に蓄積されていたことがわかります。さすがに世界に冠たる情報機関を持つ国です。さらに驚くべきは、著者が日本及び日本人のことを相当な精度で把握していることです。たとえば、天皇(心の皇帝)と将軍(世俗の皇帝)の並立する権威の存在をはっきりと意識していたことがあります(したがって、ペリーの二度にわたる来航は、開国の是非をめぐる国論統一の時間を将軍に与えるためとも推測できます) ・・ 続きは本文で・・

ペリーの見た幕末の日本 - 「ペリー艦隊大航海記」 大江志乃夫 1994年 立風書房
 ・・・ 
 『人民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう』
『日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう』と予言している。
 もし、その豊かさと限りない発展の可能性についてペリーが揺らぐことのない信頼を寄せていた故国アメリカに対する、最大の競争者として立ち現れた140年後の日本を見たならば、彼はどのような感想をもらしたであろうか。
ペリーは帰国した後も、『あまり年を経ずして、日本が東洋(トルコ以東のアジア地域)のなかで最も重要な国家の一つに数え挙げられるようになる』ことに『疑う余地がない』と指摘した。
・・・・・・ 当時すでにペリーらが日本から受けた印象は、鎖国下の日本が他のアジア諸国とはかなり違った文化的・社会的発展を遂げつつある国であり、近代欧米文化に適応する能力と文化水準を十分にもち、いずれは欧米先進諸国の競争者の仲間入りをする可能性を秘めた国である、ということであった。 ・・ 続きは本文で・・

 

確執! シーボルトとペリー
 ペリー提督が司令官に任命された後、シーボルト同遠征隊の一員として雇われたいと申し出た。彼は非常に日本に行きたかったので、自分の望みを達するために非常に大きな影響力を有する人物を動かした。ペリー提督は、いくつかの理由から、特に追放されたと一般に信じられている人を日本に連れ帰ったために自分自身が累を及ぼされたくないし、自分の使命の成功を危うくしたくなかったので、あらゆる影響力を持つ人、最高の権勢家からの推挙も拒絶し、シーボルトを同艦隊中のどの舟にも乗り込ますことを積極的に拒絶しつ続けた

ーボルトへのペリー艦隊の強い反発
 日米和親条約が締結されたことが世界に報告された数ヶ月後、シーボルトはボンで「あらゆる国民の航海と通商とのために日本を開国させようとしたオランダとロシアの努力に関する信頼すべき記録」を発表しました。これに対して、遠征記は次の通り記しています。

 我々はシーボルトのためにその公刊を惜しむのである。それは何ら科学的な目的に役立たないものであり、著者が以前に発表した価値ある文書において知らせていること以上には、日本について何一つ新しい事実さえも記していない。それは、明らかに抑えに抑えた苛立たしい虚栄心の産物であり、また、明らかに二つの目的を目指したものである。一つは、著者自らに栄誉を与えることであり、他の一つは、合衆国並びに日本遠征隊を非難することである。

 ・・・続きは本文で・・

ジョン万次郎とペリー

・・・それにしても、この聡明な役人と、地球を股にかける大旅行をしてきた万次郎との出会いは、のちに全く予期しないところに実を結ぶのであった。
 江川はオランダ語と軍事学の学者で、識見のある行動派であった。
 黒船騒動が江戸を襲ったとき、彼は新式の築城と造船を研究していた。
 鎖国令は大洋を航海できる大船の建造を禁じていたが、黒船来訪の刺戟で、一部の武士の間には、一刻も早くこの禁制を解除すべきだと主張する声がおこっていた。
 江川太郎左衛門もそのひとりだった。
 だから万次郎こそ、江川が補佐役にほしがっていた、まさにその人物だったのだ。
 江川は考えた。「万次郎は優秀な通訳になるだろう。それに老中阿部がじきじきに目通りを許している。
それなら万次郎を怪しいと思うものはもういないはずだ」
 ところが、幕府の重大な決定には、水戸の徳川斉昭(なりあき:副将軍水戸烈公)が絶大な発言力をもっていた・・・

万次郎を信用できなかった水戸斉昭 - 水戸斉昭から江川への書状(現代語訳)
  さて万次郎と申すものは、決して疑わしい者ではないと見抜いておられるものとお察しします。
 本国を慕って帰ってくる程の者だから、感心な男には違いないが、元来アメリカが幼年の万次郎を見込んで、ひとりだけに特別に恩をほどこし、教育を受けさせた点を考えると、企(たくら)みが全くなかったともいえない。
 そのうえ、万次郎としても、一命を救けられたうえ、幼年から二十余歳に至るまでの恩義があるから、アメリカの不利になることは決して好まないだろうと思われます。
 だから、たとえ、疑いがないと見抜いていても、あの船に遭わすことはもちろん、上陸のときも、アメリカ側に会わせることは必らず見合わせ、こちら側の内密の評議などは一切知らさないようにすべきです。
 もっとも貴君の使いようでは、アメリカ事情が万次郎からよく解るでしょう。
 そして、かえって防備の道具にすることができるかどうかは、江川、貴君の腹ひとつということになります。
 ・・・・

 「万次郎に教育を授けたのは後日に役立てるため」とする推論は、たしかに筋が通っていたし、アメリカ艦隊が来訪する前に様子を探ぐる偵察任務を帯びていた、と疑われても不思議はなかった。
 それにもかかわらず、水戸公のいうように、万次郎をうまく利用すれば価値は大きい。
 まもなく万次郎は、土佐藩の屋敷から江川の屋敷に移された。
 自分の手許に引きとってしまえば、どんな話もできる。
 そのころ築城、造船の研究に精を出していた江川にとって、万次郎の存在は、まさに天恵であった。
 〈万次郎はちょうどよい時に帰ってきた。いまこそ万次郎は国のため、その能力を存分に発揮できるときだ。〉
 江川はそう信じた。
 万次郎は日米談判には参加できなかったが、それでも、彼の貢献は偉大であった。 ・・ 続きは本文で・・

万次郎の洞察
 万次郎は捕鯨基地として賑わうニューベッドフォードの街を見ていた。捕鯨が米国の生命線であることも知っていた。日本を<開港>させる。恩人との約束を果たす時が来た。万次郎は<万感の思い>を込め、老中・阿部正弘に説いた。
米国が求めているのは<開港>です。<通商>を求めているとは米国で聞いたことがない」。幕府の腹は決まった。
<開港>する。しかし<通商>は拒否する。帰国して3年、万次郎は勇みたった。
一方のペリー。もし幕府が<開港>を認めなければ<武力>で琉球と小笠原諸島を占領するつもりだった。

交渉開始直前、異変が起きた。万次郎に米国の<スパイ>という嫌疑がかかった。言い出したのは御三家水戸の徳川斉昭。万次郎は米国に不利な情報は出さない。<利敵>行為をとるに違いないという。事実無根。万次郎は自分を推薦してくれた幕府の江川太郎左衛門(英龍)に食い下がった。
「自分はあくまでも日本人です。米国に10年もいた。いろいろな人間と付き合った。どんな英語でも通訳できる。きっとお役に立つ…」と訴えた。江川と万次郎は幕府の高級幹部・斉昭の意向に背き、密かに横浜に向かう。

いったん帰国したペリーは嘉永7年(1854年)2月8日、今度は7隻の軍艦で伊豆沖に現われたのだ。万次郎は幕府側首席の林大学頭と夜を徹して語り明かした。
ペリーが<兵站>をも辞さない覚悟と知って<開国>だけでなく<通商>も受け入れる覚悟だったという。だが万次郎は断言した。米国には<通商>の意志はない…と。
嘉永7年2月10日。最初の日米交渉が始まった。昼過ぎ、日本側の林大学頭の第一声が響いた。
開港はします。通商には応じられません」―――。
毅然とした林の言葉。ペリーはじっと考え込んだ。やがて言った。「通商の話はこれで終わりにしましょう」―――。
 続きは、<ペリー来航>が運命を変えた」ジョン万次郎の挑戦 で


ペリーとの交渉で通商回避を成功させた林大学頭
 ペリー「わが国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交の無い国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら帰国は人命を尊重せず、日本近海で難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民をわが国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民を見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である・・・」
 ・・・・・
 ペリー「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のあること、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」

林大学頭「交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか」

ペリーの人命第一を逆手にとった林大学頭の反撃です。これにはペリーは沈黙し、しばらく別室で考えた末に答えました。

ペリー「もっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易は国益にかなうが、確かに人命とは関係が無い。交易の件は強いて主張しない」

通商の回避は成功しました。

参考 BS歴史館 幕末・日本外交は弱腰にあらず! 黒船に立ち向かった男たち

幕末対外交渉におけるプチャーチンとペリーの比較

・・・ プチャーチンは、イギリスが清国に対して強要した南京条約(1842)直後に、清国の開港がロシアの国情に及ぼす政治経済上の影響をいち早く察知して、極東政策の急務を皇帝ニコライ一世及び政府閣僚に進言したほどの機敏な人物であった。半島なのか島なのかいまだ不明であるサハリン島、それにアムール川の河口の詳しい調査を対日交渉と並行して実施することを提案した。彼の意見は皇帝に認められ、特別委員会で審議の結果、1843年、遠征隊を清国と日本に派遣して領土、通商問題を一挙に解決すべくプチャーチンを適任と認める旨を決議した。もしも、このときに予定通りにプチャーチンの遠征隊が日本に来航していたら、アメリカのペリーよりも約10年早く日本開国の機先を制することになったであろう。しかし、外相ネッセリローデは近東政策(対トルコ問題)を先決とし、ヴロンチェンコ蔵相は極東維持による国費膨張を危惧し反対した。ニコライ皇帝は動揺し、遠征隊派遣は延期と決定されてしまったのである。
 それから、再びプチャーチンが日本に派遣されるまで9年の歳月が無駄に過ごされてしまったのは、財政逼迫という事情が大きい。この間ロシアは生産力も技術力もますます涸渇する状態であった。西欧諸国は産業革命を終えて、飛躍の道に立っているのに、ロシアは農奴制に基づいた近代化が完全に行き詰まっていたのである。プチャーチンにあてがわれた艦隊の旗艦は、船齢20年の老朽艦であるフリゲート艦パルラーダ号であった。大型の汽走軍艦はロシアにはなかった。それが、ペリーが大型の汽走艦「サスケハナ」を旗艦としていた米国との決定的な差であった。ペリーは「汽走軍艦の父」という異名を持っていた。
・・・・・
プチャーチンは、日本政府の全権代表は賢明で国務に長じており、その物腰も上品で、ヨーロッパの一流文化人の特徴でもある知識欲を備えている人物という印象を受けた、と書いている――「全権代表や長崎奉行をはじめ役人たちは、丁寧、懇切、愛想のよさをこめてわれわれに尽くそうと務めていた。大旅行家たちが日本人は極東随一の教養ある国民だと書いているが、まったくそのとおりだと思うことがあった。長崎滞在中、日本人はわれわれに対する態度を最後まで変えなかった。ロシア側と友好関係に入ろうとする日本政府の意図の誠意を表明したのである」
 ・・・ 続きは本文で・・

「プチャーチン 日本人が一番好きなロシア人」 白石仁章著 新人物ブックス
 ペリーが砲艦にもの言わせて高圧的態度で日本との交渉に臨んだのに対し、知日家として知られたシーボルトの助言を受けて、プチャーチンは寛容かつ謙虚な姿勢を通した。結果として、ペリーの強硬な姿勢が日本の扉を開かせることになったのは歴史が語るとおりである。ペリーがプチャーチンと同じように友好的な態度で幕府と対峙したら、日本があのように短期間で開国にむかったかどうか確かではない。しかし、プチャーチンの態度に、交渉にあたった川路聖謨らはロシアに大いに好感をもったことは事実である。
安政の大地震で発生した津波を受けて、プチャーチンが乗船したディアナ号が沈没した。プチャーチン一行五百名は西伊豆の戸田村に避難し、そこで日本の協力を得ながら母国に帰国するための帆船(のちに「ヘダ号」と名付けられた)を建造した。この間、戸田村民とロシア人との間には濃厚な友情が育った。この本でも地元の奉納相撲大会にロシア人が飛び入り参加したことなど、微笑ましいエピソードが紹介されている。こうした体験を通してプチャーチン自身も熱心な親日家となった。
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その後
 維新後のプチャーチンは日本からの留学生を支援して、その保護者のような役割を果たした。
 日本と条約を結んだ功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。1861年、教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命されるが、大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧したため、政治家としての評判は芳しくなかった。また1881年(明治14年)には日露友好に貢献した功績によって日本政府から勲一等旭日章が贈られた。1883年、80歳で死去。死に際して娘オーリガ・プチャーチナに託して遺産のうち一千ルーブルを戸田村に寄贈することを遺言した・・・ 関連:「その後のプチャーチン」を参考

通商求めロ軍艦、大坂来航 威圧的態度で一触即発状況

 礼儀正しく幕府に接してきたプチャーチンだが、嘉永6(1853)年6月、下田に来航したペリーにより日米和親条約が締結されると、ロシア帝国が怒った。
 ロシアはアメリカより早く、寛政5(1793)年に漂流民大黒屋光太夫に案内されて北海道に着き、ラクスマンを団長とする対日使節団を10カ月滞在させ、通商を求めている。第2回は文化元(1804)年、やはり漂流民津太夫を案内人にレザノフが今度は長崎に入る。さらにペリーらに1カ月遅れの嘉永6年7月、プチャーチンの率いるパルラダ号が同じく長崎を訪れているので、大坂黒船来航は4回目であり、新参のアメリカに先を越されたロシアは、カンカンになっていた。
 日本は圧力に弱い。紳士的外交ではだめだと考えたようで、ペリーの黒船に負けぬディアナ号に乗り換えたプチャーチンは、嘉永7年8月30日、まず箱館に到着、水と食料を積むと同時に徳川将軍宛(あて)に書簡を送り、大坂で交渉するから準備しておくよう申し入れる。いつも幕府の長評定には参っていたから、宿題を出しておいたわけだ。
 同年9月18日、ディアナ号は天保山(大阪市港区)沖に現れる。 「高さ一丈五尺 帆柱十間余真中一本 前後七、八間のもの二本天に冲(ちゅう)し 船べり黒・白・赤の三段に塗り分け 上段に大砲十挺(ちょう) 中段十五挺 左右合計五十挺 前後六挺ずつ合計六十二挺 剣付砲伝馬(てんま)船十五艘(そう) 乗員五百一名」と記録される巨大な船で、なにわっ子たちは仰天した。 日本語で大きく「おろしや」と書いた旗をひるがえし、威圧する。  ・・・ 続きはプチャーチ上) で   プチャーチン(下)